私が考えるクイーンと映画『ボヘミアン・ラプソディ』の魅力
映画『ボヘミアン・ラプソディ』で新しいQueenファンが増えることを予想して書いた私のブログは、公開5日目で20万PVを超え、公開から3か月近くたった今も毎日2,000~3,000PV前後を記録する、ブログ歴8年の私としても異例のロングヒットとなりました。
Queenという海外のアーティストに特化した2万字超の長文記事というのは、バズる記事の条件からは明らかに外れています。しかしながら、はてなブログの年間ランキングでは23位、はてなブックマークの年間ランキングでも82位にランクインすることができました。
もちろんこれは、それだけ『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしているということです。私自身も映画にすっかりハマり、これまでに計5回観に行きました。
さて、実はそのブログ記事の原案は文章が長くなりすぎ、一部カットしました。本エントリーはそのカットした文章を加筆修正して仕上げたものです。いうなればアウトテイクのようなものです。個人的見解がやや強めではありますが、前回のブログをお楽しみいただけた方、映画を観てQueenについてもっと知りたくなったという方は、よろしければこちらもご覧ください。
主な内容は以下の通りです。
1. Queenの魅力の中心にあるもの
Queen最大のヒット曲”Bohemian Rhapsody”は、1975年にイギリスで9週連続のNo.1になり、フレディ・マーキュリー没後の1991年にも再び全英No.1となりました。その人気は21世紀になっても衰えるところを知らず、ギネスブックが2002年に行った「英国音楽史上最高のシングル」ではThe Beatlesの名曲を押さえてNo.1となり、映画がヒットした影響もあり、ストリーミングで最も再生されている20世紀の曲にもなりました。
Queen - Bohemian Rhapsody (Official Video)
まさに名実ともに時代を超越して愛されている、人類史に残る名曲といえるでしょう。その一方で、 映画をご覧になった方ならお分かりと思いますが、 これだけ世界中で親しまれている曲であるにも関わらず、その歌詞はダークで抽象的で、解釈が難しいものです。
[Intro]
Is this the real life? Is this just fantasy?
Caught in a landslide, no escape from reality
Open your eyes, look up to the skies and see
I'm just a poor boy, I need no sympathy
Because I'm easy come, easy go, little high, little low
Any way the wind blows doesn't really matter to me, to me[Ballad Part 1]
Mama, just killed a man
Put a gun against his head, pulled my trigger, now he's dead
Mama, life had just begun
But now I've gone and thrown it all away
Mama, ooh, didn't mean to make you cry
If I'm not back again this time tomorrow
Carry on, carry on as if nothing really matters[Ballad Part 2]
Too late, my time has come
Sends shivers down my spine, body's aching all the time
Goodbye, everybody, I've got to go
Gotta leave you all behind and face the truth
Mama, ooh (Any way the wind blows)
I don't wanna die
I sometimes wish I'd never been born at all[Opera Part]
I see a little silhouetto of a man
Scaramouche, Scaramouche, will you do the Fandango?
Thunderbolt and lightning, very, very frightning me
(Galileo) Galileo, (Galileo) Galileo, Galileo Figaro magnifico
But I'm just a poor boy, nobody loves me
He's just a poor boy from a poor family
Spare him his life from this monstrosity
Easy come, easy go, will you let me go?
Bismillah! No, we will not let you go
(Let him go!) Bismillah! We will not let you go
(Let him go!) Bismillah! We will not let you go
(Let me go) Will not let you go
(Let me go) Will not let you go
(Let me go) Ah
No, no, no, no, no, no, no
(Oh, mamma mia, mamma mia) Mamma mia, let me go
Beelzebub has a devil put aside for me, for me, for me![Rock Part]
So you think you can stone me and spit in my eye?
So you think you can love me and leave me to die?
Oh, baby, can't do this to me, baby!
Just gotta get out, just gotta get right outta here![Outro]
Nothing really matters, anyone can see
Nothing really matters
Nothing really matters to me
Any way the wind blows[イントロ]
これは現実の人生?それともただの幻想?
地滑りにあい、現実から逃れることができない
目を開き、空を見上げてみなよ
僕はただの可哀想な少年、共感はいらない
なぜなら僕は気ままに、平穏だから
気分は小さく上がり下がりする
どんな風が吹いても、僕には問題ない[バラードパート1]
ママ、男を殺してしまった
頭に銃をつきつけて、引き金を引いたら、彼は死んでしまった
ママ、人生はまだ始まったばかりだ
でも今、僕はそれをすべて投げ捨てしまった
ママ、ママを泣かせるつもりじゃなかった
もし明日のこの時間に、僕がもう戻ってこなくても
何もなかったように、暮らし続けて[バラードパート2]
遅すぎるんだ、時間が来てしまった
背中が震えて、ずっと体が痛いんだ
さようなら、みんな、僕は行かなきゃいけない
君たちから立ち去り、この事実に向き合わなければいけない
ママ、(どんな風が吹こうとも)
死にたくない
生まれてこなければ良かったって時々思うんだ[オペラパート]
僕は男の小さなシルエットを見る
スカラムーシュ、スカラムーシュ、ファンダンゴを踊らないのか?
雷鳴と稲妻、僕を驚かせる
ガリレオ、ガリレオ、ガリレオ、ガリレオ、貴族ガリレオ・フィガロ
でも僕はただの可哀想な少年、誰も僕を愛さない
彼は可愛そうな家族から生まれた可哀想な少年
醜い彼の人生から、彼を許してやろう
そう言って気ままに僕を解放しようとする
簡単に手に入るものは簡単に出ていくもの、本当に僕を行かしてくれる?
神の名のもとに!いいや、私達はお前を行かせない
(彼を許せ!)神の名のもとに!いいや私達はお前を行かせない
(彼を許せ!)神の名のもとに!いいや、私達はお前を行かせない
(僕を行かせて)お前を行かせはしない
(僕を行かせて)お前を行かせはしない
ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ
ママミーア、ママミーア、ママミーア、行かせてよ
ベルゼブブが僕の傍に悪魔を置いていったんだ[ロックパート]
それで僕に石を投げ、目につばを吐けると思ってる?
それで僕を愛し、私を死に追いやれると思ってる?
ベイビー、そんなことは僕にできないだろう、ベイビー
今すぐ出よう 今すぐここを出よう[アウトロ]
何にも問題ない、誰から見ても
何にも問題ない
僕にとって何にも問題ない
どんな風が吹いたって
謎多き歌詞故にこれまで、多くのジャーナリストや研究者がその解釈に挑戦してきました。中でも有力とされているのは、フレディが幼少期から抱えていたトラウマが反映されているといった解釈です。しかし、生前フレディが ”Bohemian Rhapsody” の歌詞を解説することはなく、これまでにメンバーが明確にその意図を説明したこともありません。
映画の中でも「歌詞はリスナーのもの」というセリフが出てきますが、これは、"Bohemian Rhapsody"に限らず、歌詞を説明しない、歌詞の解釈は任せる、というポリシーがQueenにあったことを示唆しています。それ故に、"Bohemian Rhapsody"の歌詞をフレディのトラウマなどを持ち出して解説することに、私自身は違和感を覚えます。もちろんこれは、その説を含めて自由に解釈して議論するのがQueenの楽しみ方の一つである、という前提の上での個人的な意見です。
劇中では、レコーディング中にロジャーが「ガリレオって誰?」と呟き、笑いを誘います。 "Bohemian Rhapsody"のシングルカットに反対するレコード会社重役レイ・フォスターは、オペラパートで突然登場する「スカラムーシュ」「ガリレオ」「ビスミラ」の意味を問いただしますが、ブライアンは歌詞を説明するのはナンセンスだと一蹴します。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』にはブライアンの監修が入っています。このような映画の演出と制作背景を踏まえると、 "Bohemian Rhapsody" の歌詞について、もちろん個人的な原体験など、インスピレーションの源になる何かがあったとは考えられますが、その一方で「なんとなくそうしただけ」「深い意味はない」「皆が楽しめればそれでいい」という考えが、作詞・作曲を担当したフレディにはあったのではないでしょうか。
そしてこの「なんとなく」というのは、 実はQueenの音楽の中核にある、大事なコンセプトであるようと思います。この 「なんとなく」 で判断するスタンスは、映画の中でも見事に表現されています。映画の終盤、4人のメンバーが和解するシーンで、ブライアンがフレディを 一度退席させたとき、その意図を聴いたメンバーに対してブライアンは「ただなんとなく」といい、緊張が解けるような雰囲気になります。このシーンを観たときに私は「あぁなんだかQueenっぽいやりとりだなぁ」と思いました。
2. 適当バンド、Queen
「なんとなく」で意思決定する彼らの適当さは、1974年にリリースされた2ndアルバム『Queen II』の時点から見受けられます。
本作は全英チャートNo.5まで上り詰め、彼らの名前を一躍世界的に知ら占めた作品です。『Queen II』の大きな特徴として、前半(アナログの表)をホワイトサイド、後半 (アナログの裏) をブラックサイドとし、一部の楽曲は組曲のように繋がってることがあげられます。そのため楽曲を切り取って使いにくく、"The Seven Sea Of Rhye"を除いてはベストアルバムにも収録されず、CMや映画の主題歌などでもほとんど使われていません。それ故に各楽曲の知名度は他の有名曲と比べてやや劣るのですが、しかしながら、その壮大さと構成力から、 初期の名盤としてQueenファンやロックファンに愛されている名作です。Guns N' Rosesのアクセル・ローズは本作を棺桶に持っていきたいアルバムと称し、Nirvanaのカート・コバーンは人生のマスターピースに本作をリストアップしていました。
『Queen II』がリリースされた頃の時代背景を少し説明すると、当時はプログレッシブ・ロックという音楽ジャンルの人気がピークを迎えていた時期でした。 プログレッシブ・ロックとは、娯楽としてのロックからアートとしてのロックを目指した進歩的、前衛的なロックの総称であり、クラシックの影響を受けた長尺の楽曲、組曲編成のアルバム構成、社会問題などを提起する高尚な歌詞やコンセプトが特徴です。代表的なアーティストに、Pink Floyd、King Crimson、Yes、Emerson Lake & Palmaer、Genesisなどが上げられます。
実はPink Floydは『ボヘミアン・ラプソディ』劇中にもセリフの中で少し登場しています。"Bohemian Rhapsody"のシングルカットに反対するレイ・フォスターに対して、マイアミことジム・ビーチが「君は『狂気』も手掛けたのか」と語りかけるシーンが出てきますが、この『狂気(The Dark Side Of The Moon)』こそ、1973年にリリースされた、世界で5000万枚以上を売り上げ、 Billboardのアルバムチャートに15年間もランクインしたPink Floyd最大のヒット作であり、音楽史上に残るモンスターアルバムです。
Pink Floyd - The Dark Side Of The Moon
このようなプログレッシブ・ロック興隆の時代背景があった上での、当時新進気鋭のロックバンドQueenによる意欲的な大作『Queen II』ですから、当然プログレッシブ・ロックに通じる深いコンセプトや意図が込められているのでは、と考えてしまいがちです。 ホワイトサイドは正義を、ブラックサイドは悪を意味し、人間や世界の明暗を描写して本質的な問題に切り込んでいる、などという推論を立てるのは、ごく自然なことでしょう。
しかし、本作がホワイトサイドとブラックサイドに分かれていることに対するメンバーの公式な回答は、「特に深い意味はない」でした。ここでも彼らの「なんとなく精神」がいかんなく発揮されていたわけです。
1978年にリリースされた、"Fat Bottomed Girls"、"Bicycle Race"、"Don't Stop Me Now"などが収録された『Jazz』というアルバムがあります。音楽ジャンルとしてのジャズのような音楽性であるかのようにミスリードさせる本作は、「イ~ブラヒィ~」「アッラ~アッラ~アッラ~」というアラビア風の謎の掛け声とオリエンタルなメロディから始まります。
それまでのQueenの楽曲とは明らかに異質なこのオープニングナンバー"Mustapha"のインパクトは絶大であり、彼らの隠れた人気曲にもなっています。1979年にリリースされたライブアルバム『Live Killer』では、"Bohemian Rhapsody"の前に "Mustapha"の一節が歌われ、それに合わせて観客が大合唱するシーンが収められています。
このようなオリエンタルな楽曲が作られた背景に、フレディがアフリカのザンジバル出身で、その後インドに移住している、家族がゾロアスター教徒である、といったことが影響を与えていると考えがちです。あるいは、非英語圏でのセールスを意識した、マーケティング戦略の一環などと想像してしまうかもしれません。
そして実際に、『Jazz』のリリース時に、記者から自身の出生と”Mustapha”の関係を尋ねられたことがありました。しかしその時のフレディの回答もまた、「ザンジバルやインドとは何の関係もない」という元も子もないものでした。
この曲はスイスのモントルーのスタジオで書かれたもので、アラビア風のロックが面白いと思ってアラビア語辞典を見て歌詞を考えはじめたが、やはり意味がない方が面白いと思い、 ”Mustapha”が生まれたと説明したそうです。この曲の歌詞には意味がないどころか、どこかの国の言葉ですらありません。歌詞が掲載されているインナースリーブには、「Not In English」と一言添えてあるだけでした。これもまた、Queenの 「なんとなく精神」を象徴するエピソードです。
このように、深い意味もなく、なんとなくで物事を決めているというQueenの特性は、そのキャリアの至る所で見受けられます。
"Sheer Heart Attack"という楽曲がアルバム『Sheer Heart Attack』ではなく『News Of The World』に収録されていること、たまたま台座から取れたマイクスタンドをそのまま使い続けたこと、"Another One Bites The Dust"で似つかわしくないディスコを突然取り入れたこと、デビュー以来こだわっていた「No Synthesizer」を『The Game』で突然やめたこと、コース・アンド・レスポンスで「エーオ!」という意味不明な謎の呼びかけをすること、突然スタジオに訪問したデヴィッド・ボウイとジャムセッションをはじめそのまま"Under Pressure"としてリリースしたこと、すべてにおいて特に意味はなく、ただなんとなくそうなっただけ、なんとなくその方が楽しそうと思っただけ、それ以上の深い理由はない、というのが真相だったのではないでしょうか。
3. Queenに対する批判
もちろん、彼らの「なんとなく」は、本当に何も考えていなかったわけではないでしょう。メンバーは高学歴者揃いのインテリバンドです。感性だけでなく知性で物事を考える素養は十分に備わっていたはずです。表向きは「なんとなく」といいながら、本当は彼らなりの深い意味があった可能性もあります。
しかしそれでも彼らが「なんとなく」であることを意図的に選択し、公式見解としていたのは、元々は楽しく踊るためのダンスミュージックの一種だったロックンロールが、やがてヒッピーや反戦と結びついてカウンターカルチャーの象徴として担ぎ出され、哲学や思想や宗教を歌詞に込めて高尚な理屈をこねるようになり、プログレッシブ・ロックのようなアート性や文学性を高める方向に進化していったように、全体的に小難しくなっていった70年代のロックに対する彼らなりのアンチテーゼであったのかもしれません。楽しさには理由も理屈も必要なく、むしろ無秩序で非論理的で一貫性がないからこそエンターテインメントになりうる、という彼らなりのポリシーがあったのだと、私は考えています。
例えば、先に紹介した レイ・フォスターに対するジム・ビーチの「君は『狂気』も手掛けたのか」という発言の解釈も、少し変わってきます。素直に受け取れば、 『狂気』のように長尺の曲ばかり収録したアルバムだって世界的にヒットしたのだから、6分近い"Bohemian Rhapsody"だってヒットするのでは?と賛成を促すセリフだと解釈できます。
しかし深読みすれば、Pink Floydに代表されるプログレッシブ・バンドとQueenは違う、他のバンドと同じように理由やコンセプトで理解しようとしてはいけない、と疑問を投げかける言葉にも受け取れます。もちろんこのシーンは創作で、 レイ・フォスターも映画用の架空の人物なので、ここで推測している意図とは、これを書いた脚本家と、これを承認したブライアンやロジャーの意図、ということになりますが。
話を戻しますが、こうした彼らの「なんとなく」「楽しければいい」というポリシーのなさは、時には批判の対象にもなりました。彼らは大衆からの絶大な人気と裏腹に、評論家受けの悪いアーティストとしても知られていました。このことも、彼らの「なんとなく精神」を知ると納得がいきます。
直感的な娯楽性だけを求め、ポリシーなく楽曲を作っていた彼らの作風は、ロックに文学性や高尚さ、社会とリンクする文脈を求めて言語化したがる評論家とは、当然のように相性が悪かったのでしょう。一貫性なく刹那的に音楽的な方向性を決めているQueenには、The BeatlesやThe Rolling Stones、The Who、Led Zeppelin、Black Sabbath、デヴィッド・ボウイらに感じられるような美学や一貫した音楽哲学が欠如しているように見えます。それが評論家からすれば、「凡庸」「知的でない」「芸術性に劣る」「下世話」という評価に繋がるのでしょう。
この彼らの「なんとなく精神」は、言い換えれば「音楽に文脈を与えない」ということですが、この考えは、特定の政治思想やイデオロギーから距離を置くという彼らのスタンスにも繋がります。そしてその姿勢がトラブルを起こしたこともありました。今でこそQueenは世界的な人気アーティストですが、実は彼らは世界中から大バッシングを受けたことがあります。
LIVE AID前年の1984年、バンドは『The Works』を帯同する『The Works Tour』をスタートさせました。世界13カ国全48回行われたライブの中には、南アフリカのサンシティで開催されたものもありました。しかしこの時、南アフリカの人種差別政策アパルトヘイトに反対し、国連は南アフリカでの文化活動の自粛を呼びかけていました。それにも関わらずQueenはその要求を無視し、9回に渡ってライブを行いました。Queenのこの行動は「人種差別を容認している」として世界中から批判を浴び、英国音楽協会からは罰金を科せられ、国連のブラックリストに掲載されるまでに至りました。
この行動に対して彼らは「ファンがいるから演奏した」といった発言をしています。この行動の賛否について私は語る言葉を持ちませんが、この「サンシティ論争」もまた、Queenの音楽はあらゆる政治や思想からは距離を置き、その影響を受けない、という彼らなりの考えがあっての行動だったのでしょう。実に、彼ららしい出来事であるように思います。
彼らが音楽から距離を置いたのは政治思想やイデオロギーだけではありません。自らのプライベートもまた、Queenの音楽と結びつかないよう、注意を払っていたように思えます。劇中のフレディがエイズをメンバーに告白するシーンでも、病気だからと同情されたくない、エンターテイナーであり続けたい、という決意が語られます。これは、フレディとQueenが、エイズという病に対してどう向き合ったかを象徴するセリフでもあります。
80年代中盤からゴシップ誌を中心にフレディがエイズに感染しているという報道がなされ、90年代に入り報道は過熱していきました。しかしながら、死の間際までフレディがそれを認めることはありませんでした。エイズを世界に公表した1991年11月23日は、フレディが亡くなる日の前日です。既にフレディは末期の状態であり、声明文はジム・ビーチが起案したとされています。
このように、死のギリギリまで病を公表しなかったことについて、「他にエイズで苦しむ人を助ける機会を奪った」という批判もあったそうです。しかし、「音楽に文脈を与えない」というQueenのポリシーを考えれば、これは至って当然の決断でしょう。
私たちはフレディがエイズでなくなってしまったことを知ってしまっているので、特に1988年『The Miracle』と1991年『Innuendo』の楽曲には、フレディの病気を紐づけて解釈してしまいがちです。しかし彼らからすれば、余命少ないヴォーカリストを擁する可哀そうなバンドの作品だなんて思われたくなかったでしょう。そしてそれぞれの楽曲は、それまでのQueenの楽曲と同じように、特定の意味を持たず、リスナーが好きに解釈できる自由な曲であってほしいと願っていたはずです。
このような彼らの真意を推察すれば、「まだやれる」という意思があったからこそ、フレディが歌うことができなくなるそのギリギリまで、エイズを公表しなかったのではないでしょうか。
4. Queenの音楽が時代を超える理由
彼らのこういった「なんとなく精神」にもとづく適当さやいい加減さや一貫性のなさ、そして特定の思想や社会背景、あるいはプライベートから距離を置く抽象性は、Queenの音楽にとっての、二つの大きな強みの原動力になっていると私は考えます。
一つ目は、彼らの独自性です。直感的な楽しさを優先した曲作りは、楽曲の多彩さに繋がっていいます。前回のブログ記事の中で、Queenの音楽は多彩過ぎてスタイルを模倣できない、という話をしましたが、その根底には、特定の考えや一貫性に囚われない、彼らの「なんとなく精神」があったといえます。
特定の思想や価値観を軸として持ち、過去のスタイルとの連続性を意識すれば、確かにアーティストとしての明確なカラーと一貫性が生まれるでしょう。しかし時にそれは、アーティストを強く縛り付ける足枷にもなりえます。ある程度の成功を収めたアーティストが自らの殻を破ろうと四苦八苦し、音楽性を変え、その結果ファンを失う、という現象が音楽シーンで今日まで数多く繰り返されてきました。
もちろん、一般的には彼らの失敗作と言われている1981年の『Hot Space』を持ち出すまでもなく、Queenの音楽活動にその手の試行錯誤や苦難が皆無だったとは思いません。しかし、元々何物にも囚われていない彼らは、自らを縛りつける制約が非常に少なかったアーティストだったともいえるのではないでしょうか。まさに"Spread Your Wings"の歌詞にあるように、彼らは自由人であり、彼らが翼を広げれば、いくらでも遠くまで飛んでいけたわけです。
二つ目が、時代を超える普遍性です。特定の思想や政治、宗教、プライベートから距離を置くと、楽曲は抽象度を増します。そして抽象的な楽曲は、時代が変化しても通用する普遍性に繋がっていきます。具体的に何を歌っているわけでもない楽曲だからこそ、何かの文脈を与えられるとそれと自然にマッチし、その文脈のサウンドトラックとして機能するようになります。
例えば、『ボヘミアン・ラプソディ』を観た人の多くは、LIVE AIDの冒頭で歌われる"Bohemian Rhapsody"の歌詞の内容に心打たれたことでしょう。成功と挫折を味わい、メンバーや家族と和解し、その一方で長くはない自らの余命を感じながらLIVE AIDの舞台に立つフレディと"Bohemian Rhapsody"の歌詞が、見事にシンクロするわけです。
あるいは、歌詞の冒頭の"Mama, I'm just killed a man"というのは、歌詞を文字通り読めば、"Bohemian Rhapsody"の歌詞の主人公が行ったことについての独白ですが、母が産んでくれたファルーク・バルサラを殺してフレディ・マーキュリーとなり、自らの享楽的なロックンロールライフによって、そのフレディ・マーキュリーも殺してしまうことになる、ということに対する独白のようにも読めます。
しかしながら、"Bohemian Rhapsody"はご存知の通り、1974年に作られた楽曲であり、決してフレディがエイズになってから作られた楽曲ではありません。ただ単に、ボヘミアン(伝統や習慣に囚われず自由奔放で享楽的に生きている人)のラプソディ(狂詩曲、叙事詩的な楽曲)というだけで、それ以上の意味を与えられた楽曲ではありません。だからこそ、映画のあのようなストーリーにも溶け込むような、玉虫色の解釈ができるわけです。
また、LIVE AIDで続いて歌われる"Radio Ga Ga"は、80年代にMTVの台頭によって力を失いつつあったラジオ賛歌と一般的には言われています。しかし、映画の流れの中で歌われると、70年代に全盛期を迎えながら80年代に失速したQueen自身をラジオに例えた曲のようにも聴こえます。サビにある"You had your time, you had the power, You've yet to have your finest hour(君が力を持っていた時代があった、君はまた素晴らしい時を過ごすべきだ)"という一節は、自分たちを鼓舞するための、そして病に侵されたフレディを勇気づけるためのメッセージのようにも読めます。
しかし実際のところこの楽曲は、作詞作曲を担当したロジャーの息子が「Radio caca」と発言したという素朴なインスピレーションから生まれたものと言われています。Queen自身を鼓舞するようなそんな意味はなかったのかもしれませんが、強い文脈を与えられずなんとなく作られた曲だからこそ、劇中のQueenやフレディとオーバーラップする効果をもたらしているように思えます。
実際、そもそもロックバンドの歌詞というのはいかようにも解釈できるものが多く、その抽象性はQueenの専売特許ではありません。また、特定の社会背景や政治思想、プライベートを歌った曲が、時代を超える名曲として愛されているケースは多々あります。抽象的じゃないと普遍的な曲にならない、というわけでもありません。
それ故に「抽象的な歌詞だったからQueenは21世紀も愛されているのだ!」と断言することは、ファンの贔屓目による偏った解釈と言われても仕方がないでしょう。しかしそれでも、彼らが21世紀になっても聞かれ続け、映画やスポーツの世界でも頻繁に使われているのは、音楽に意味づけすることを嫌い、ある程度の抽象性を保ち、解釈をリスナーに委ねた彼らのポリシーが、一つの理由になっているように思えてなりません。
5. 完璧なまでにQueenな映画
日本で記録的なヒットを飛ばし、世界でも目覚ましい興行成績を上げている『ボヘミアン・ラプソディ』ですが、公開当初は批判の声も聞かれました。なかでも、熱心なQueenマニアからあがったのが、「史実を変えすぎている」という批判です。
私自身も映画を観る前に、ネット上でこのような国内外の批判を多く見かけ、観るのが少し不安になりました。リアルタイムから彼らを追っているファンの中には「私が求めるQueenじゃない」と、観賞すること自体を拒否している人もいました。
しかしながら実際に映画を観た私は、そういった脚色を含めて、とてもQueenらしい映画だと思いました。それは「楽しさに理由は必要なく、むしろ無秩序で非論理的で一貫性がないからこそエンターテインメントになる」という、私がQueenに感じていたポリシーを、この映画からも感じ取ることができたためです。
例えば、映画では最初のUSツアーで演奏されていた曲として、"Fat Bottomed Girls"を選んでいたことなども、このことを象徴しています。
Queen最初のUSツアーは1974年5月で、2ndアルバム『Queen II』の後、3rdアルバム『Sheer Heart Attack』の前になります。当然ながら、ツアーで演奏された楽曲のほとんどは『Queen』『Queen II』のものであり、それ以外にはエルヴィス・プレスリーの"Jailhouse Rock"やイギリスの女性歌手シャーリー・バッシーの" Big Spender"のカバーなどが演奏されたそうです。ちなみに、これはQueenの単独ツアーではなく、当時Queenより人気があったMott The HoopleのサポートアクトとしてのUSツアーでした。
その一方、映画の中で初のUSツアーは、デビューアルバムの直後に行われます。さらにはこのUSツアーを代表する楽曲として演奏されていた"Fat Bottomed Girls"は、1978年リリースの『Jazz』に収録されている曲です。つまり、"Bohemian Rhapsody"よりも後に生まれた楽曲であり、当然ながら、これが1974年に行われたQueen初のUSツアーで演奏されているのは、史実に反する大きな矛盾です。
史実に忠実であることを求めるQueenマニアにとっては、これは見るに堪えない改悪に思えたことでしょう。よりによって時代的にまったく辻褄が合わない"Fat Bottomed Girls"がピックアップされる必然性はなく、史実に比較的近づけて、『Queen』や『Queen II』の収録曲から選べばいいじゃないか、という彼らの意見も分からなくもありません。
しかし私は、この改変を比較的好意的に受け取りました。なぜなら、砂塵を巻き上げてアメリカの大地を疾走するツアーバンの映像に対して、豪快で骨太なロックナンバー"Fat Bottomed Girls"がピッタリだと思ったからです。
映画にはこのように、史実を完全に無視した演出がそこかしこに施されています。
Queenはデビュー作でいきなり成功したわけではありません。”Killer Queen”はデビュー作収録曲ではなく、続く2ndアルバムが『A Night At The Opera』なわけでもありません。マネージャーのジョン・リードが加わったのは4th『The Night At The Opera』が発表される前であり、映画のように最初から彼がマネージャーだったわけではありません。フレディがメアリーに見せている”Love Of My Life”の映像は1985年のRock In Rioの映像で、時代的には随分後の映像であり、史実を踏まえれば矛盾しています。”We Will Rock You”は1980年ではなく1977年に発表されており、当時のフレディは短髪の髭ではありません。LIVE AIDの前に長い活動停止期間などはなく、フレディがエイズを発症したのはLIVE AIDより後で、メンバーに公表したのも1988年の『The Miracle』制作中というのが定説です。そして実際のLIVE AIDのQueenのライブでは”Crazy Little Called Love”と”We Will Rock You”の一部が演奏されています。
このような事実を完璧にインプットしているマニアからすれば、『ボヘミアン・ラプソディ』の脚本には違和感しかないかもしれません。しかもこのように都合よく史実が改変されているにも関わらず、使われている音源は実際のQueenのライブ音源なわけですから、思い入れのあるマニアとしてはこの映画をどう受け入れていいのか、ということなのだと思います。
しかし辻褄を無視し、楽しさ優先で、とにかく120分の娯楽作品として完結させるということに振り切っているというのがまた、実にQueenらしくはないでしょうか。
そもそも、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のゴールはなんだったのでしょうか。ドキュメンタリー映画ではなく、実力ある俳優と最新テクノロジーで再構成されたハリウッド映画の新作として作られた意図はなんでしょう。
当たり前ですが、まず大事なのは十分な興行成績を上げることでしょう。そしてこれを許可したブライアン・メイやロジャー・テイラーにとっては、古参ファンを楽しませること以上に、新しいQueenファンを獲得することに重きを置いていたのではないでしょうか。
そして史実との整合性を完全無視した『ボヘミアン・ラプソディ』は、この映画の目的を十分すぎるほどに達成しました。世界では930億円を突破し、日本でも当初想定の20億円を大きく上回って110億円を突破し、洋画・邦画を含む2018年に公開された映画のNo.1に上り詰め、「スターウォーズ/フォースの覚醒」を追い越しました。Queenのバックカタログは日本でも世界でも再びチャートインし、雑誌やテレビなどのメディアもこぞってQueenを取り上げました。
このように、関係者すら予想しなかった驚くべき成果をもたらして改めて思うのは、もしこの映画がQueenマニアを満足させることをゴールとし、史実に忠実な映画であったなら、興行的にはここまで成功しなかっただろうし、ここまで新しいファンを獲得することはできなかっただろう、ということです。
そもそも、史実を確認する方法は、Wikipediaをはじめ多種多様に存在します。それは、いったん関心を持ってから知ればいいことであり、映画がまずやるべきは、Queenの音楽の素晴らしさを伝えること、そしてQueenというアーティストに関心を向けることです。そのために必要な、楽しさを優先した史実の改変であるならば、それは映画として正しい方向性だったといえます。個人的には、すべての話が綺麗に収まりすぎる終盤の展開はいささか安直なように最初は思いました。しかし、Queenとフレディ・マーキュリーの魅力を語るために話を複雑にするのは避け、より多くの人に間口を広げた分かりやすい脚本に仕上げたことも、結果的には正しい選択だったように思います。
そしてさらにいえば、マニアや評論家から批判されながら、一般大衆には大いに受け入れられた映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、評論家から酷評されながら英国チャート9週連続No.1になった”Bohemian Rhapsody”そのものを想起させます。あるいは、評論家やロックマニアよりも一般大衆に愛されたQueenのキャリアを再現しているようでもあります。
Queenの根底にある「楽しさ優先」「なんとなく精神」を受け継ぎ、史実との辻褄合わせを放棄して記録映画としての不完全さを選択した『ボヘミアン・ラプソディ』は、Queenを知らない世界中の人々にQueenの魅力を伝える娯楽映画として十分すぎるほどの成果を上げ、その上で批評家や口うるさいマニアからは評価されず一般大衆には愛されたQueenそのものを体現するという、まさに「完璧なまでにQueenな映画」だと、私は思うわけです。